担当者名:認定神戸ミャンマー皆好会
2010年12月08日
ミャンマー日本人墓地に故武者一雄さんのお墓
65年前の今日12月8日に昭和天皇の「大東亜戦争開戦の勅書」が発せられ、米英と開戦した。
開戦から4年8ヶ月の間に、米軍機の日本無差別空襲で都市部は焼き尽くされ、広島・長崎に原爆投下をされて多くの非戦闘員の国民が尊い命を失った。
そして多くの兵士も戦地で戦・病・餓死で尊い命を失った。
ビルマ戦線では19〜20万人とも言われる兵士が戦・病・餓死で尊い命を失った。

11月に当会は林副理事長を始め4人がミャンマーツアーに参加して、今回も日本人墓地を参拝する機会を得た。

墓地には新たに作家「武者一雄様」の墓が建立されていた。
武者さんはビルマ戦線インパール作戦に参戦された兵士で昭和21年に復員、福井県の永平寺で修行され、故郷群馬県赤城山下の雲昌寺の住職をされていた。
かたわら作家として活躍された。昭和45年に映画ビルマの竪琴のモデルとなった「ビルマの耳飾り」を発表され、講談社の児童文学新人賞を受賞された。
武者さんは平成20年12月に92歳で亡くなられた。

「ビルマの耳飾り」を読まれた方も多いと思う。
この本の推薦者浜田広助氏の推薦文を紹介したい。

兵隊さ、敵を殺さないでください……
日本兵の無事を願って、大切にしていた
(耳飾り)を一兵卒に託したビルマの可憐な
少女の祈り……20万の兵士が野山に白骨を
さらしてた悲劇の戦場インパールに人知れず
咲く、日本兵とビルマの子どもたちのヒュー
マンストリー。

林副理事長の祈りに合わせて、私たちも合掌をした。
常任理事 北山 秀俊

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2010年08月17日
メイミョウの陸軍墓地 その2
遥々と九州の現うきは市から娘さんが陸軍墓地を参られた

メイミョウと呼ばれていた地名は、今はピンウールィンと呼ばれている。
シャン高原の一角にあり標高1,100mにあり年中花が咲き乱れ、避暑地として有名な所だ。英国の植民地時代から避暑地として栄えた。

当会は農業支援の梅農園と交流会館を持っているので、毎年ピンウールィンを訪れる。

ビルマ戦線では32万人の兵士が戦い、19万人が戦病餓死者された。
メイミョウには陸軍墓地が建立されている。

この墓地まで来られてお参りされた戦死者の娘さんの標し(写真左下貼付)がありました。墓石の傍の柱に、戦死されたお父さんの氏名、戦死日、部隊名、そしてお参りに来られた娘さん自身の住所氏名が厚手の布地に書かれていました。そしてその上に白菊一輪が手向けられていました。白菊は美しくドライフラワーになっていました。

第18師団輜重兵第12連隊 菊8911 
池田光夫 昭和19年9月8日戦死

福岡県浮羽郡吉井町 (現在は2005年3月20日の町村合併で うきは市)
長女 国武ハルカ
と記載されていました。

ハルカさんが陸軍墓地を参られたのは、町村合併以前になりハルカさんの誕生は昭和19(1944)年以前と思われます。ハルカさんが2004年にメイミョウに来られたと仮定しますと、ハルカさんの年齢は60歳を超える年齢になります。
池田家の長女として戦死されたお父さんを思い続けて、メイミョウまでお参りに来られたと思います。

当会の女性会員のお父さんは昭和18年3月、1歳を迎えたばかりの娘の顔をじっと見つめビルマ戦線へと出征されました。昭和22年、父戦死の報せを受けました。彼女は子どもの頃からお父さんを思い続けました。
2007年に彼女は当会のツアーで、お父さんが戦死されたプローム県カマまで行かれました。そこでミャンマーの僧侶にお願いをして「父の眠るカマで追善供養」を行ないました。
彼女はお父さんが戦地で居たと思われる場所で「一瞬、父と同じ空気を吸っているような錯覚を覚えました。」と言われました。

ハルカさんも同じ気持ちだったと思います。
ハルカさんの白菊一輪に目頭を熱くしました。
常任理事 北山秀俊


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2010年08月15日
メイミョウの陸軍墓地 その1
空港で高齢のご婦人から「陸軍墓地をお参りして」と言われた

昭和20年8月15日私は国民学校6年生、疎開先の我が家にラジオがあり、近所の人たちが大勢集まってきた。玉音放送だと言う、ラジオははっきりと聞き取れなかったが、大人たちは戦争に負けた、戦争は終わったと言った。
敗戦から65年、戦地で日本で亡くなられて多くの方々のご冥福をお祈りしたします。

ある年、当会のツアーで私たちはヤンゴン空港に降り立った。空港入管ゲイトで高齢の団体の婦人に話しかけられた。
「皆さんどちらに行かれるのですか」
「私たちはメイミョウに農業支援の梅農園と交流会館を持っているので、メイミョウにも行きます。」
「それはよかった、メイミョウには陸軍墓地があって、私たち同僚の看護婦もたくさん眠っています。ぜひお参りくださいね。」ご婦人たちは元従軍看護婦の方たちだった。
戦争中メイミョウは、ビルマ方面軍の高等軍事司令部となった。
軍事司令部は、日本から著名な料亭を招き、「翠香園の灯は消えず」と脂粉と酒の匂いが漂う料亭から、牟田口廉也司令官は300km離れた戦線へ死守命令を出し続けた。
結果ビルマ戦線で19万人の戦病餓死者を出し、メイミョウには兵站病院があり従軍看護婦が活躍されていたが、多く看護婦も亡くなられた。

私たちは陸軍墓地をお参りし、花を手向けて亡くなられた兵士と看護婦の皆さんのご冥福をお祈りした。

私は墓地の上屋の柱一本に目が留まり写真を撮らせていただいた。
そこには戦死されたお父さんを、遥々九州からお参りに来られた娘さんの白菊一輪が手向けられていた。私たちの涙を誘った。
常任理事 北山秀俊

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2010年03月23日
ミャンマー日本人墓地のブーゲンビリア
美しいブーゲンビリアが私たちを迎えてくれます。

3月8日に日本人墓地をお参りしました。
11度目になりました。

墓地の門を入るといつも美しいブーゲンビリアが私たちを迎えてくれます。
平成16(2004)年10月に初めて墓地をお参りしました。
この墓地は平成10年3月に現在の北オカラッパ地区イエウェイに移されました。

奥中央にミャンマー政府が建立された平和記念碑があります。

門を入った左右両側に明治初期からの墓石があり、名前だけのからゆきさんのものと思われる墓石もあります。
平成17年以降墓地中央に各県の戦没者慰霊碑が建立されるようになりました。

今年3月にお参りした際、墓地管理の家族の主人2人と通訳を通じてお話しする機会がありました。
「私たちは、この墓地を管理している者です。ヤンゴンの市街地化がすすみ、この墓地に移転するまでは、ヤンゴンのタモエ地区とチャンドウ地区でそれぞれ日本人墓地を管理していました。」「墓地がこの地に移転されてから、2家族で管理しています」「右側は彼が管理していた墓石で、左側は私が管理していました」
私は、今まで何気なく墓参していましたが、墓地管理のお話を初めて聴くことができました。
2人が言いました「近年お参りに来られる人が少なくなってきました」と。
2家族の皆さんは、はいつもきれいに墓地を管理してくれています。
常任理事 北山秀俊

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2010年02月19日
悲劇のビルマ戦線を想う
シッタン河を見る中尾作蔵理事長(2005年3月)

 昭和20年5月、ビルマ戦線では戦車や重火器を持つ英印軍に補給線を分断され、幹線道路を占領されラング−ン(現ヤンゴン)陥落。アラカン山系やペグ−山系に5万人の日本軍が取り残された。
その後7月に脱出作戦になった。

 雨期で濁流となったシッタン河の渡河作戦を強行。竹を結わえた筏に上官や軍服・銃を載せ、端につかまり、押し出すように激流に泳ぎ出る。「上流からどんどん人が流されてきて、しがみつかれた。でも自分まで流されかけふりほどいたんだ」沈痛な元兵士の告白も。この渡河は「史上まれにみる悲壮な物」(「シッタン・明号作戦」防衛庁防衛研修所)。
この頃になるとアウンサン将軍率いるビルマ国軍は日本軍に叛旗を翻した。対岸には農民に扮したビルマ軍がおり、この世とも思えない地獄・悲壮な敗走となった。

 理事長も幾多の体験をされ、生死の境を幾度も現地の人々に助けられ、戦後永年ミャンマ−への恩返しとして、戦没者の慰霊や農村部での生活向上の支援活動を行なってきました。
これらの活動に共感して集まり活動を広げているのが「神戸ミャンマ−皆好会」です。
副理事長 林 英雄

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2010年02月11日
日本パゴダ
パゴダの多い国に日本パゴダがあります

ミャンマーはパゴダの多い国です。ヤンゴンには有名なシュエダゴンパゴダが金色に輝いています。

マンダレーも多くパゴダを見ることができます。
中に日本パゴダがあります。パゴダの一角に建立の由来を書かれた石碑がありました。
常任理事 北山秀俊

日本パゴダ建立の由来
第二次世界大戦において祖国日本の護りとして派遣された若き兵士たちが、愛国の姿勢に燃えて、この地ビルマに戦いましたが戦時に利あらず、国と家郷の彌栄を願いながら、この山河の中に屍を横たえてゆきました。
戦後三十年を経てこの地を訪れた生還者たちが、野をこえ山をこえて喚び交はす亡き戦友たちの望郷と愛国の願いの声を耳底にはっきりと聴きました。その純粋な願いを更に耳を澄まして聞き、其の徳を讃えるために塔の建立を決意し三年の工期を経て昭和五十一年一月一応の落成を見ました。
是の工事を担当したのは列第百三十八聯隊の生存者でありました、然し英霊は一つであり百三十八聯隊の者は全英霊にささげる塔と考えています。
塔はもとより佛舎利を安置するものであります。
戦友たちの心の佛陀にまで華されんことを願いつつこの小碑を建てます。
一九七六年春 烈第百三十八聯隊  戦友一同

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2010年01月24日
カチン州タナイン町の郊外にある日本軍慰霊碑に参拝
慰霊碑に参拝

カチン州フーコン谷渓タナイン町の郊外にある日本軍慰霊碑に献花焼香する。
インドの国境に近いこの町はインパール作戦で敗走してきた日本軍将兵が多く倒れた地域である。多くの将兵は飢餓とマラリア、アメーバー赤痢に侵され、倒れ、白骨街道と証せられたリド公路への道筋である。
近くの軍隊の駐屯地の門衛兵に場所を聞くと、休暇中の兵士がバイクに乗せてくれて案内してくれた。この碑は戦後その軍隊に所属していた方が戦友の慰霊のために建立されたと書かれていた。
よくぞ慰霊のために来られたものと亡くなられた将兵の方々にお祈りを奉げたが、知らず涙が頬を流れてくるのをとめることが出来なかった。

この地に来られたのは世界最大の野生トラ保護区(ベルギー国と同じ面積)が設定されたニュースを聞き、政府林業省野生動物保護局長の許可を得て訪問が出来たものである。
私は元神戸市立王子動物園の園長でトラの血統登録管理をしていたことから退職後は絶滅の危機にある野生のトラ保護のためのボランテイアをしているからであり、今回は生息数を調査するために必要なトラップカメラを10台寄贈し、現地の保護管理官に使用方法を教えに来たものである。
 常任理事 権藤眞禎

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2010年01月21日
日本人墓地に参拝
日本人墓地に参拝

皆好会のミャンマーツアーに参加させていただきました。
ツアーで日本人墓地を参拝しまいた。
私は戦後生まれで、戦争のことは余り知りませんが、ビルマ戦線で戦った日本兵はどんなに日本に帰りたい気持ちでここに眠っているのだろうかと思い、私は涙がこぼれそうになりました。
戦死された方々の墓は、勿論、私の知らない戦死者でしたが、日本人として、日本のお菓子をお供えさせていただきました。
他の方は日本酒を持参してお供えされていました。

ビルマを日本軍は侵略しました、日本は侵略者でありました。
ミャンマーの人たちは、日本の戦死者の墓の雑草を抜き取り、綺麗に掃除をして下さっていました。
そこへミャンマーのお坊さんも来て下さり、私たちと一緒に戦死者の冥福を祈ってくださいました。
日本の軍人がビルマを侵略して人々に大変ご迷惑をお掛けしましたが、ミャンマー人は心優しい仏教徒ですので、日本人墓地を守ってくれているのだと思いました。
上田泰江

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2010年01月17日
亡くなられた留学生ウェ・モ・ルインさん
阪神淡路大地震で亡くなられた留学生

阪神淡路大地震から15周年を迎えました。
神戸の東遊園地に亡くなられた6,434本の竹筒のろうそくが今年も灯されました。
私は記帳をして、菊の花一輪をいただき献花をして、亡くなられた方々のご冥福をお祈りました。

この大震災で留学生も多くの方々が亡くなれています。
学業半ば大震災で亡くなられた無念を感じます。

ヤンゴン郊外に日本人墓地があります、この墓地にミャンマーから日本に留学されて、神戸大学大学院で学ばれていた学生ウェ・モ・ルインさんのお墓があります。
墓石には「神戸大学院留学中阪神大震災にて不慮の犠牲者となる」と刻まれています。
墓石の両面にウェ・モ・ルインさんの写真が施され、参拝者に微笑みかけています。
ウェ・モ・ルインさんのご冥福を心からお祈りします。

ウェ・モ・ルインさんの墓石の写真が毎年薄くなっていくのを寂しく思います。
常任理事 北山秀俊

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2009年09月23日
父が亡くなったビルマ戦線戦場カマで追善供養
写真をクリックで拡大します。

(写真)父の眠る戦場カマで追善供養

父の眠る国 ミャンマー
第12回ミャンマーツアーに加えていただき実現した
         カマ慰霊の旅

                    清水 澄子

 4月15日酷暑のミャンマーに着いた私達は、16日ミャンマーの大晦日の水掛祭りを見物、午後には瞑想寺院で日本の修行僧に会い、夕方にはシュエダゴンパゴダを参詣しましたこうして身も心も清められ、いよいよ念願のカマ訪問です。

ミャンマーで眠る父
私の父は、あの太平洋戦争で、昭和18年3月に臨時召集されました。母に背負われた1歳を迎えたばかりの私の顔をじっと見つめ、無言で列車に乗ったと近所の人に聞きました。岡山編成の工兵54連隊に所属し、シンガポール・マレーシア・タイを経てビルマに行き昭和20年5月22日にプローム県カマ(現在のマグエ管区にあり、エーヤワディ川に臨むピイの対岸の町)で死亡しています。
 タイからビルマへは、別名「死の鉄道」と呼ばれる泰緬鉄道の建設作業に従事し、鉄道が完成すると直ちに列車に乗り
昭和18年末にビルマに転進したそうです。その後、父達の部隊は、ベンガル湾に沿った海岸線の防備・道路の構築、第一・第二アラカン道の交通確保作業に従事したと聞いております。父は、戦況いよいよ不利となった昭和20年の1月にマラリアと脚気を罹病しながら、厳しい状況のもと、最終目的地のモールメンを目指し、苦しい行軍を続け、イラワジ河の渡河点付近のカマで亡くなったそうです。
 昭和22年、父戦死の報せを受けた母は、私を人里離れた
所まで連れて行き、号泣しました。「どうしたん」と聞く私に、27歳の母は「お父ちゃんはもう帰って来ない」とだけ言い、私を抱きしめました。幼心に「大変だ」と感じた私は、父を心の奥に納めたのです。以来、母が亡くなるまで、気丈であった母のあのように悲しむ姿を私は見た事がありません。
そして、御他分に漏れず、母の元に戻って来たのは、「砂」だけでした。
このようにして、父は今も34歳のままミャンマーで眠っているのです。

念願のカマへ
 17日はミャンマーの新年です。早朝にホテルを出発、プローム街道を北上しました。道中、お正月の花・パダウを髪や自転車の前に飾っている人、花束にして抱えている人など新年らしい光景が見られました。ピイで昼食をとり、ニャウンピンセェ港へ。ボートに乗る事50分、カマ港に着きました。
木の杭が数本あるだけの港では、豚も人間も一緒に水浴びをしていました。なんて長閑なことでしょう。
 私のミャンマー慰霊は二度目ですが、どうしてもこのカマに来たかったのです。前回は、平成17年12月に日本遺族会からのモールメン・ペグー・ヤンゴン・レッパダンの各方面、5日間、1512km、計9ヶ所の慰霊の旅でした。その年の夏、親の情を精一杯注いでくれた養父も33回忌を迎えました。供養の後、養父が「行っておいで」と言ってくれたように思え、ミャンマー慰霊友好親善訪問団に参加できたのです。
各地で目を輝かせる子供達に会い、降るような星空に懐かしさを覚えました。私は、レッパダンよりさらにピイ寄りの、
アニャダンジーのモッカ川で慰霊をさせていただきました。
慰霊を終え、ヤンゴンへの帰り、バスの中で大きな茶色い布に包まれたように思いました。今まで味わった事のない温かい安らぎです。バスを降りる時、止めどもなく涙がこぼれ落ちました。父が会い来て、別れを言ってくれたのでしょう。
 今回は、私が父を訪ねて来たのです。一つには、イラワジ川からベンガル湾の間で亡くなった父達の部隊の179名の霊に折鶴を添えモールメンに送るため。もう一つには、写真もなく心の中にだけいた父に会い、「ありがとう」と言い、養父と母が私を懸命に育ててくれたことを伝え、4人で一体になりたかったのです。それが、私の務めと思ったのです。
お陰様でどちらも叶いました。
 慰霊の場所をさがす途中、幸いにも戦争当時12歳であった老僧から、日本兵が亡くなった場所や、日本兵がいた場所
をお聞きする事が出来ました。あの山の向こう、あちらの山の向こう、その向こうと、指差しながら話してくださる老僧はまるで仏様のように見え、「よしや違っていても良い。父の眠る地はあの山の向こう」と私は心に決めました。
 慰霊は、高台にあるションサン寺でさせていただきました。
願成寺さんがご用意してくださった第二次大戦戦没者の霊と父の霊を供養する2本の塔婆を立て、
「最終目的地のモールメンに行ってください。そして皆さんと一緒に日本へ帰ってください」と祈っていますと、風がスーッと吹き抜けて行きました。不思議です。
塔婆は、毎日お経を聞けるようにと、ションサン寺の僧がご自分の部屋に置いてくださるそうで、ありがたい事です。
 帰りは陸路です。私達をニャウンピンセェ港で降ろした運転手さんが、ピイに戻り、エーヤワディ川に架かる橋を渡って迎えに来てくれたのです。その道は、橋が出来てから、カマの人達が自力で造った手作りの道で、アキャブに行く道に繋がっています。車は、粒子の細かい砂塵を舞い上げ、窓を閉めていても車内は黄色くなりました。凸凹の地道を揺られながら走っていると、なだらかな丘陵の向こうに大きな夕陽が沈み始めました。62年前の昭和20年4月17日頃、父は、あの夕陽の向こう、アン付近にまだいたのです。一瞬、父と同じ空気を吸っているような錯覚を覚えました。
薄暗くなっても無灯火で走る車の向こうに、牛を引いて歩く人が見え、ふと、夜陰に紛れて行軍する兵隊さんの姿が重なります。あの道を通っていただいたお陰で、父達の築いた道に思いをめぐらせ、電灯のない暗闇の中に、ベンガル湾より敵と虎の恐怖に遭いながら、やっと辿り着いた兵隊さん達を見たように思います。
今回カマを訪れて、父が四ヶ月余り病気と闘いながら、酷暑の中、食糧も乏しく、薬もない状態でここまで来る事ができたのは、戦友の皆さんの励ましと望郷の念の支えがあったからだろうと痛感いたしました。
「よく頑張った」と、子から父へ表彰状を出したい思いです。
願わくは、過酷な状況のなかにあっても、父にも、あの穏やかで心優しいミャンマーの人々と、ほんの僅かでも、良いふれ合いがあったことを祈ります。
今日も真っ赤な夕陽を浴びて父は眠っていることでしょう
私が幼い頃から、夕陽に一際心惹かれる訳も分かりました。
私にとって不可能だと思っていたカマ慰霊の旅を実現させていただきましたこと、心よりお礼を申し上げます。 (皆好会会報5号から)

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2009-09-23 14:17 | 記事へ | 日本人墓地と各地の戦没者慰霊碑 | コメント(0) | トラックバック(0) |
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